忘れられないピアノの話。

衝撃だった。

あんなに嬉しそうに鳴るピアノを見たのは、初めてのことだった。

 


曲は、ラヴェルの「水の戯れ」。
奏者は、中学生の女の子。

冒頭の1小節から、ピアノと奏者の「2人」の世界に引きずり込まれた。

 

それまでのわたしは、疑いもなく、ピアノ演奏の主体は奏者だと思っていた。ピアノ自体は、演奏のための道具にすぎないと考えていた。
でも、その演奏は違った。そこでは確実に、演奏はピアノと奏者の「2人」によって創り出されていた。

 

2人の関係性はこうだった。奏者は、ピアノの気持ちを理解してピアノに寄り添おうとしている。ピアノは、奏者がそうしてくれるのが嬉しくて、表情豊かに鳴ってみせる。

 

例えて言うなら、人間と飼い犬の関係性。犬には名前が付けられ、家族の一員として可愛がられる。飼い主の人間は、お腹のここをさすったら嬉しそうな顔をするんだよな、などと考えながら飼い犬と触れ合う。犬のほうも、嬉しいときには尻尾を振って全身で喜びを伝えるし、飼い主がつらそうなときには寄り添う。

 

この奏者はピアノに名前こそ付けていないだろうけれど、こんなふうにピアノがどこをどう弾かれたら嬉しいかをわかっていた。ピアノと奏者の「2人」は、一体化し共鳴していた。さらには、ピアノのために奏者が鳴らしてあげているようにも見えた。この演奏において、ピアノは全くもって道具なんかじゃなかった。

 

この演奏を聴いたとき、わたしは中学生だった。その後3日ほど、この演奏のことばかり思い出して過ごしていた。あんなふうに弾けたらどんなに気持ちいいだろう。どんなに楽しいだろう。どんな練習をして、どんなことを感じて、考えたらあんなふうになれるんだろう。やっぱり才能も大事なのかな。そのときに答えは出なかったけれど、練習表に丸をつけるためだけに弾いているのではないだろう、ということだけはわかった。

 

今改めて考えてみると、やっぱり「2人」で演奏していたところが肝だと思う。ピアノと粘り強い対話を重ねていたからこそ、ひとりよがりにならずに、ピアノから音を引き出せたのではないだろうか。

 


わたしはあの演奏を、あれから10年近く経った今でも時折思い出す。

 

あの子は今もどこかで、ピアノを鳴らしているのだろうか。